HARIMAYA(ハリマヤ)を語りたい。~その32008年02月29日 10時55分44秒

1924年に開催されたオリンピック、第8回パリ大会での金栗四三選手。

さてさて、「ハリマヤを語りたい」のつづきです。


【改良に改良を重ね・・・】

足袋の底に丈夫なゴムをつけ、ショックをやわらげる凸凹(でこぼこ)を加えた改良足袋が生まれました。

金栗選手達は、下関~東京間1,200kmを20日間かけて走破する実験で満足すべき成果を得た。

1919年には、足袋の“こはぜ”を取り除き、甲ひもタイプの「金栗足袋」が誕生した。1928年のアムステルダム五輪ではこの足袋をはいた山田選手が4位、津田選手が6位に入賞した。

さらに1936年のベルリン五輪では、日本代表選手の孫基禎選手が優勝。1951年、ボストンマラソンに出場した田中茂樹選手は2時間27分45秒で優勝。いずれも「金栗足袋」をはいていた。

その翌々年、さらに改良を加えたマラソンシューズの第一号ともいうべき「カナグリシューズ」をはいて出場した山田敬蔵選手がボストンマラソンで優勝した。

【若き選手達のために。】

日本のマラソンの歴史はそのままハリマヤの歴史。

これからもより速く走るためのマラソンシューズを目指し、あらゆる研究・改良が続くだろう。あとに続く選手達の栄光のために。ひたすら走り続ける若き選手達のために。


以上が、1989年度のハリマヤカタログに紹介されている「日本のマラソンの歴史は、そのままハリマヤの歴史です」 の全文です。

「下関~東京間1,200kmを20日間かけて走破する実験」なんて所は、もう、絶句してしまいます。

しっかし、1,200kmを20日間で走破ということは、一日の走行距離は60kmでしょう?・・・あれ?マラソンのレースでの耐久性を調べるのなら、60kmを1回走るだけで十分じゃん。1日で実験終わるじゃん。1,200kmも走る理由は?何も下関から東京まで走らんでも、町内をぐるぐる回ったっていいんじゃん?

な~んて、ツッコンではいけない!!この、ツッコミどころ満載な人間臭いエピソードこそが、ハリマヤなんだなぁ。いやあ、オモシロイ!!

ハリマヤのエピソード、まだまだ紹介したいと思います。

※マラソン足袋の歴史がJOC(日本オリンピック協会)のサイトでも紹介されています。併せてお読みいただくと、よりおもしろいです。

世界を制したマラソン足袋↓

http://www.joc.or.jp/stories/memorial/20060511.html

コメント

_ お江戸で小猿、トム吉! ― 2009年05月29日 09時47分44秒

甚だ曖昧な記憶で申し訳ありませんが、1976年~1980年にかけて私が大学生時代に、確か「カナグリマラソンオウ」と言うような商品名のハリマヤのシューズを履いて、ハーフを二度ほど走った経験があります。当時中京商業だか中京高校が高校駅伝で全員ハリマヤのシューズで走った記憶があるのですが・・・。その後私はこのシューズが盗難に遭い紛失してしまい、今は手許に残っておらず大変残念です。

_ gori ― 2009年06月03日 15時08分34秒

お江戸で小猿、トム吉!さん (スゴイネーミング!)

コメントありがとうございます!

1976~1980年。今から約30年程前の貴重なお話伺いました。

当時、ハリマヤは「品番」というのがなかったそうで。

サンワーズの創業者は、

「○○(商品名)の、25.0。色は白地に青のライン」

みたいに、商品そのものを表現して電話で注文していたそうです。

また、シューズは手作りで、会社と工場が直結していたので

「このシューズ、ラインをゴールドにしたって!」

とか言うと、職人さんがわりと簡単に作ってくれたそうです。

私なんか、こういう光景を目に浮かべると、思わずニンマリしてしまいます。

なんか、いい時代だなぁと。

人の気持ちが直接つながりあって、モノが作られていたんだなぁ。

シューズは手作りだから、同じシューズでも形が微妙に違う。よって、シューズを選ぶ時も、同じシューズを履き比べて、よりフィットする方を選んだとか(ニンマリ)。

ハリマヤのシューズが盗難にあったというお話は、みなさんのコメントでもよくお聞きします。ハリマヤに限らず、それだけ、よいシューズは手に入りにくかったということなのでしょうね。

盗難にあったのは残念ですが、お江戸で小猿、トム吉!さんの知らないところで、そのハリマヤシューズが、どこでどんな歴史を刻んだのでしょうね。

ありがとうございました。

_ 輝凛 ― 2012年01月24日 00時46分54秒

はじめまして。
〝マラソン足袋〟を検索してたどり着きました。

なぜ?というと・・・私の母方のひいお爺さま(黒坂辛作)が、マラソン足袋を発明した人で金栗選手とは深い面識があった・・・というお話を祖母(8年前96歳で他界)から以前聞いていて、その当時の新聞のコピー(写りは悪く不明瞭ですが・・・)をいただいていたので(日本版と英字新聞版もあり)、いったいどんな偉大な方だったのだろう・・・とふと思い、検索してみました。

すると、新しい発見が多々ありました。〝ハリマヤ〟という名前は聞いたことがあり、祖母が生前、紳士洋服店を大塚に所有していた・・・という話にも合致していて・・・なんだかとても親近感を覚えました。

それとあの有名メーカーのアシックスさんのルーツが〝ハリマヤ〟だったというのも知らず、驚きました(>_<)

〝温故知新〟マラソン足袋の展示してあるはきもの博物館にも是非、訪れてみたいです。

日々、目まぐるしく進化し続けている昨今、足元を見失うことなく、一歩ずつ成長していきたいものです。

靴は毎日履く、いわば第二の足。
常に探求し続け、皆様に喜ばれる商品が生み出されるよう、今後のご活躍も期待しております。

_ gori ― 2012年01月25日 19時15分25秒

輝凛さん

コメントありがとうございます。

これは・・・スゴイお話です。
読んでいて、鳥肌が立ちました。

金栗四三氏と黒坂辛作氏がいらっしゃらなければ、
日本のマラソンシューズの歴史は始まらなかったのですね。

じゃあ、輝凛さんのひいお爺さまのおかげで、
ハリマヤは陸上競技用シューズの開発がはじまって、
そのシューズをオリンピアサンワーズの創業者が関西に流通させて、
そして、僕は、ハリマヤのスパイクで100mの自己新記録を出せたと。

遅くなりましたが、輝凛さんのひいお爺さまに、感謝申し上げます。
ひいお爺さま、ありがとうございました!

そして、黒坂辛作氏にお礼を言いたいのは、きっと僕だけではありません。

これまでに、当ブログのハリマヤ記事に寄せられた数々のコメントを読むと、
ハリマヤのシューズは、今も多くの人々にとって、
自身の「青春」を象徴する特別な存在であり続けているのだと感じます。

ハリマヤのシューズで青春を走り抜けたみなさんも、きっと、
「ひいお爺さま、ありがとうございました!」だと思います。

いつか、みなさんのお声を集めて、また、わかる範囲での歴史をかき集めて、
本体ホームページにハリマヤの特集ページを作ってみたいと思います。

輝凛さんがお持ちの、その新聞・・・絶対に、貴重です。
うわーーー、見てみたいっ!
輝凛さんには、ぜひ、歴史の証言者としてご協力をお願いしたいところです。

貴重なお話、誠にありがとうございました。

今後とも何卒よろしくお願いいたします。

※コメント欄に埋もれさせておくにはもったいないので、
本日のブログでも一部抜粋して紹介させていただいたおります↓
http://sunwards.asablo.jp/blog/2012/01/25/6307182

_ STAFF By HARIMAYA  ― 2012年02月22日 18時22分13秒

こんにちは、「ハリマヤ」なら日本一ハリマヤを愛した僕です。(笑)インターハイや国体の会場で売店の手伝いもしてました。


ハリマヤにも、契約選手がいまして僕もその一人でした。
契約選手と言っても契約書を交わすわけではありませんし、
お金をもらうわけではなく、シューズを供給していただき
製品作りのアドバイスをするような感じでした。契約する前から仲良くしてもらっていましたが、その頃から通算で7年間面倒をみていただきました。
他のメーカーとは違い、それほど高いシュアを持っていたわけではないので、
僕が契約後に履いたら、「○○県の売り上げが伸びた!」と、担当者は喜んでいました。(どれだけ売れてなかったんだろう!?)

契約選手は、おそらく短距離では僕一人だと思います。
僕が愛用していたスパイクは「ハリマンニューストームHK-LW」
ソールがフラットのタイプです。これが世界最高のスパイクですね。
大塚にある会社には、一度だけお邪魔したことがありますが、木型がごろごろ転がってました。(あの木型はどうなったんだろう!?
別注の足形をとってあげると言われましたが断りました。理由はすでに自分の足にジャストフィットで新たに足形を起こす必要を感じなかったからです。
A社からも「何処にもないスパイクを作ってあげる。」と、言われましたが即、お断りしました。M社の試作品も履きましたが、当時は最悪でしたね。5年間、僕は完成した26.0cmのスパイクに、26.5cmの木型を数日入れて若干伸ばしたスパイクを使っていました。本当にレース後脱ぐのが大変でした。ウソではなく2~3分かかってました。(笑)

ハリマヤ末期の話も詳しいです。
1988年末、移籍するなら今のうちに他のメーカー(A社、M社、N社)を紹介するよと言われました。もちろん、お断りし最後までハリマヤと運命をともにします。と言いました。担当者は「お前ならそういうと思ったよ!」と。(僕の競技人生もハリマヤと共に終わらせることにしました。)

ハリマヤの母体は、大きく、「専門学校」「ホテル」「焼き鳥屋」など様々な分野の経営をしていたようです。当時のスパイクの流れはA社がレジナスクローなどのアタッチメント(セラミック→プラスチック)で売り上げを伸ばしていました。M社もランバードをカールルイスに履かせて本格的に陸上へ参入してきました。
他メーカーに先んじて赤いアタッチメントをスパイクに導入していたハリマヤは、先見の目がありましたが、時代の流れは早く遅れを取り始めていました。
1987年、第2回の世界選手権ローマの時に起死回生を狙って
ドイツにすばらしいスパイクのプレートがあるとの事から
サンプルを入手しに渡独したハリマヤスタッフですが、プレートと足形が合わず残念ながら実らず。これを持って不採算部門閉める方向になったようです。ちなみに、マジックテープ(所謂ビリビリシューズ)はハリマヤがPATを持っていたって知ってましたか? お持ちのカタログに出てるはずですよ!  まだまだネタはありますがこの辺で一度終わります。

_ gori ― 2012年02月23日 18時59分59秒

STAFF BY HARIMAYA さん

コメントありがとうございます!
貴重なお話を盛りだくさん書き込んでくださいました!
これだけの長文、大変なお時間を費やされたことと思います。
感謝、感謝、でございます。

契約選手だったというお話。
他メーカーシューズとの履き比べのお話。
アタッチメントのお話。
ハリマヤ末期のお話。
大変興味深く読ませていただきました。

カールルイスの話とか、懐かしいですね~。
世界陸上東京大会で、M社がルイスに提供した、100m1本走るためだけの超軽量スパイクシューズとか話題になりましたもんね。バブリーな時代でしたね~。

ちなみに、ワタシの競技人生最後のスパイクシューズも同じです。
「ハリマンニューストームHK-O」
ホワイト色のアッパー素材に、オレンジの補強、メタリックなネイビーのラインでした。

ハリマヤとともに走り続けられ、
ハリマヤとともに幕を下ろされた競技人生。
「日本一ハリマヤを愛した」と断言なさるほどの“ハリマヤ愛”。
感動しております。

今後もハリマヤネタ、どんどんガンガンお書き込み願いたいです!

_ motoshain ― 2012年03月04日 12時54分22秒

こんにちは。すっごく懐かしい〜です。
私、事務で働いていました。
もちろんハリマヤのスニーカーを履いて元気に出勤!
歩くにも軽くてラクチン。
私が退社した後に大きなシューズメーカーだったかしら、吸収されてしまったんですね。
きっとハリマヤシューズのノウハウは何処かに引き継がれていると思いますが、
広く浅い部分での客層が増えてくれれば良かったんでしょうけどね。
工場も新潟や山形にあったはずです。
社内にいた試作品を作る職人さんもりっぱな腕を持っていました。
懐かしい事を思い出してしまいました。
ありがとうございました。

カナグリノバを思い出し、検索してたどり着きました。おじゃましました!

_ gori ― 2012年03月04日 18時28分17秒

motoshainさん

コメントありがとうございます。

お名前のとおり、ハリマヤの元社員さんなのですね!
うわぁ、聞きたいことがいっぱいありますよ。

「大きなシューズメーカーに吸収された」
これは初耳です。

「ハリマヤシューズのノウハウ」
「職人さんもりっぱな腕を持っていました」
何処かに引き継がれている、と願いたいです。

私たちの知らないハリマヤの“内側”の世界をいっぱいご存知なのでしょうね。
思い出も、エピソードも、たんまりお持ちなのでしょうね。

We want HARIMAYA ネタ!
We want HARIMAYA ネタ!

motoshainさん、よろしくお願いいたします!

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