“金栗四三のマラソンシューズ”がオリンピアサンワーズへやってきた!(その1)2013年08月01日 18時50分28秒

こ、これは・・・・・・




あの“金栗四三のマラソンシューズ”ではないかーーーっ!


ばばばーーん!


2012年12月、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」にて
川見“鑑定士”が鑑定した“金栗四三のマラソンシューズ”。
そのときの模様)。
そのお宝鑑定の依頼人・徳永さんが、
熊本県玉名市から大阪にお越しくださいました!
ようこそオリンピアサンワーズへ!

今年の4月に徳永さんからお電話をいただいた時に
一度、あのシューズをもってお店にうかがいますよ!
っておっしゃってたんですが、本当にこの日がくるとは!

クゥ~っ!

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番組が放送されてからの徳永さんは、地元のメディアでひっぱりだこに。
“金栗四三のマラソンシューズの”話題は、
熊本日日新聞でもとりあげられ、川見店主にも取材がありました。

後にあるのが、徳永さんが紹介されてる熊本日日新聞の記事。
記事の全文はこちらでご覧いただけます


金栗さんといえば、マラソンの完走記録
54年8か月6日5時間32分20秒3」。
これは、1912年のストックホルム五輪に出場した金栗さんが、
マラソンの途中に倒れてそのままレースを棄権したことからはじまる、
マラソン史に残る有名な記録であり、語り継がれる感動の物語です。
そのレース途中に倒れた金栗さんを介抱(かいほう)されたのが、
スウェーデン人のご一家“ペトレ家”のみなさんでした。

金栗さんの没後30年にあたる本年の2月
そのペトレ家の子孫のみなさんが玉名市にある金栗さんの墓前を参られました。
その際、“金栗四三のマラソンシューズ”にもご対面されたそうです。

(徳永さん所蔵の熊本日日新聞の記事。)


4月には、テレビ朝日の番組「夏目☆記念日」で放送された、
4月27日・駅伝の日」特集でも
“金栗四三のマラソンシューズ”が紹介されました。
番組HP。ゲストは松野明美さんと二宮清純さん↓


“金栗四三のマラソンシューズ”には、
今も博物館や教育機関からの問い合わせが続いているそうです。

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「開運!なんでも鑑定団」の番組収録の時、
“鑑定士”川見店主と“依頼人”徳永さんとは、
スタジオ以外ではまったくの隔離(かくり)状態だったので、
ほとんどお話ができなかったそうです。
この日は、徳永さんから、ゆっくりと金栗さんの思い出話をうかがいました。

お宝のシューズを一目見ようとかけつけて来られた方もあり。
たまたまご来店されてお宝シューズとご対面された方もあり。
「仕事で見に行けないよ!」
「ちゃんとブログに更新してよ!」とお電話くださった方もあり。

それではまいりましょー!
”金栗四三のマラソンシューズ”がオリンピアサンワーズへやってきた!
連載スタートです!

(つづく)

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関連サイト

“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

そのシューズは、日本のマラソンとランニングシューズ100年の歴史を物語る。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた(その2)2013年08月02日 18時57分53秒



(つづき)

そのシューズは、思っていたよりもサイズは小さかった。


しかし、この小さなシューズこそが、
金栗四三さんからはじまった
日本の「マラソン」と「ランニングシューズ」
その100年の歴史を物語る――


【金栗四三】(1891-1983)
“日本マラソンの父”。
日本で初めてのオリンピック選手。
フルマラソンを「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒03」で完走の伝説。
箱根駅伝の創設者。
生涯の走行距離25万キロ(地球6周と4分の1)
日本マラソン史のみならず、
スポーツ史に屹立する偉人であり巨人。

(徳永さん所蔵のポートレートより)

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【1912-1951年】

1912年ストックホルム・オリンピックのポスター
(徳永さん所蔵のポートレートより)

1912年、ストックホルム五輪。
日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場した金栗さんは、
「足袋(たび)」を履いて走りました。
その足袋を作ったのが、「播磨屋(はりまや)足袋店」の
足袋職人・黒坂辛作(くろさか・しんさく)さんです。

【黒坂辛作】〈1880-?〉
「播磨屋足袋店」(後のハリマヤ)創業者。
(写真は黒坂さんの“曾孫”輝凛さんからご提供いただいた新聞記事より)

その後、
金栗さんと黒坂さんは共同で「マラソン足袋」の開発を続けました。
進化する「マラソン足袋」は「金栗(かなぐり)足袋」と呼ばれ、
歴代の日本マラソン選手たちが愛用しました。

1936年ベルリン五輪では日本代表の孫基禎選手がマラソンで金メダル。
1951年アメリカ・ボストンマラソンでは、田中茂樹選手が優勝。
いずれも「金栗足袋」で走り、世界を制しました。

日本マラソンの歴史が1912年にはじまったとするならば、
実に40年もの間、日本のマラソン選手は
播磨屋の「マラソン足袋」で走るのが主流だったのです。

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【1950-1953年】

1953年山田敬蔵(やまだ・けいぞう)さんがボストンマラソンで優勝。
この時、山田さんは日本で“初めて”の“マラソンシューズ”とされる
「ハリマヤ」社製の「カナグリシューズ」で走りました。

山田敬蔵(1927-)
(1953年アメリカ・ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さん)

山田さんの1953年ボストンマラソン優勝をきっかけに
マラソンを「足袋」で走っていた時代は終わり、
マラソンシューズ」の時代が本格的に幕を開けたと考えられます。



調査の結果、この“金栗四三のマラソンシューズ”は、
金栗さんと「ハリマヤ」の共同開発によって
1950-51年頃に作られた、
カナグリシューズ」の最も初期のモデルだと鑑定されました。
つまり、1953年ボストンマラソンで優勝した
山田さんの「カナグリシューズ」よりもさらに古い、
マラソンシューズの“原型”
とでも呼べるシューズだったのです。

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【1950年-現在】

1950-51年頃に生産されたとされる
“金栗四三のマラソンシューズ”は180gほどの重量しかありません。

例えば現在、
アシックスのマラソンシューズの重量は、サイズ25.0cmで140gほど。
スピードランニング用のターサーは、同サイズで160gほどです。
マラソンシューズの2013年最新モデル SORTIE MAGICRICE↓
ハリマヤやアシックスが長年にわたって日本で展開してきた
定番のマラソンシューズやランニングシューズが、
外国のランニングシューズよりも軽量に実現できたのは、

「日本のランニングシューズのはじまりが、
 ハリマヤの“カナグリシューズ”だったからだ」


と川見店主は考えています。

「日本マラソンの父」金栗四三さん。
「ハリマヤ創業者」黒坂辛作さん。
このおふたりがいらっしゃらなければ、
日本のマラソンとランニングシューズは、
現在のようなレベルには到達していなかったかもしれません。

さらに、この“金栗四三のマラソンシューズ”には、
“これから”のランニングシューズづくりの“ヒント”があると
川見店主は思っています。
ランニングシューズの“過去”と“未来”。
なんとも壮大な「歴史」と「ロマン」を感じさせるシューズなのでした。




社会人サブスリーランナーのおふたりと、
強豪校に所属する高校生ランナーとオレ。
「へぇー、これがランニングシューズの“原型”!」


高校時代は3000m障害の選手だったMドクター(左)が、
診察が終わってから、かけつけて来られました。
この日のために設置した“ハリマヤ・コーナー”の前で川見店主と語り合う。
川見店主 :「ほら、これが金栗さんのシューズ」
Mドクター :「ほぉー、軽いですねぇ」


徳永さんと“金栗四三のマラソンシューズ”を囲んで1枚。


(つづきます)

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伝説のシューズメーカー“ハリマヤ”と
“金栗四三のマラソンシューズ”をもっと詳しくはこちらの関連サイトで!

“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

山田敬蔵35万キロ走破の記念メダルに涙する。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた!(その3)2013年08月03日 19時26分01秒



(つづき)

金栗四三のマラソンシューズ”が
オリンピアサンワーズにやってくることが決まった時、
Y田さんにはどうしても見ていただきたいと思いました。

Y田さんは、現在75歳。
若き日から、金栗さんや、金栗さんに続くランナーたちを
あこがれ、尊敬し、その背中を見ながら走ってこられました。
そして、なんと、今も走り続けておられます。

Y田さんは、
昨年12月の「開運!なんでも鑑定団」の放送後、
いい番組だった。いい話をしてくださった
と、感極まる声でお電話をくださいました。
そして、以前、山田敬蔵(やまだ・けいぞう)さんから
「35万キロ走破達成の記念メダルをもらった」
というお話をしてくださったのでした。

この日、Y田さんはその「山田敬蔵のメダル」を持って、
金栗四三のマラソンシューズ”に会いに来られました。

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山田敬蔵(1927-)
(1953年アメリカ・ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さん)

金栗さんと山田さんが初めて出会ったのは1949年(昭24)。
金栗さんは58歳、山田青年は22歳だった。
その時、山田さんは嬉しさがこみあげてきてならなかったという。
「あー、この人が子供の頃から憧れていたマラソンの神様なんだ!」

その後、山田さんは1952年のヘルシンキ五輪マラソンで25位。

1953年にはアメリカ・ボストンマラソンで優勝。
その小さな体で世界を制した山田さんの活躍に、
いまだ敗戦の傷跡残る日本の人々は熱狂した。
山田さんをモデルにした映画も作られたほどだ。

ボストンマラソンでの日本選手団の監督は金栗さんだった。
金栗さんはゴールした山田さんのもとに駆け寄って、
山田君ありがとう。山田君ありがとう」と
涙を流して“自分のことのように”喜んだのだそうだ。

そして、山田さんに、こんな言葉を残した。

「これからもできるだけ走ってくれ」
「走れなくなったとしても、招待を受けることがあったらその招待は受けなさい」
「たとえ小さな日本人であっても努力することによって
 日本一、世界一になれるといういい見本になれる」

山田さんはその後の生涯を、金栗さんの言葉のままに走り続けた。

金栗先生の代わりに走れるだけ走ってやれ

山田さんは、そう心に決めて走り続けた。
50歳になっても、60歳になっても、
70歳になっても、80歳になっても、
レースに出場し、走り続けた。
そして、ゴールする度に、胸の中の金栗さんに、こう語りかけた。

先生、また一つレースを走ったよ


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山田さんは2009年に81歳でフルマラソンからの引退を表明。
このメダルはその2年前、2007年に、山田さんが
35万キロ走破を達成された記念に発行されたもの。
(Y田さん所蔵)

このメダルは、
70歳(!)を目前にしたY田さんが、あるマラソン大会に出場した折に、
80歳(!)を目前にした山田さんから
キミはよく見かけるなぁ。がんばってるなぁ」と、
直接いただいたのだそうです。

このメダルを見たとき、驚きました。
これは、「山田敬蔵」さんの記念メダルのはずです。
しかし、表に象(かたど)られているのは、「金栗四三」さんです。
「日本マラソンの父・金栗翁」の文字もあります。

そして、このメダルの裏には、
金栗さんの信条である「体力・気力・努力」の文字。


金栗さんと山田さんの物語を思い出すたびに胸に押し寄せるものが、
このメダルを見ても、ぐわっと押し寄せてきました。
山田さんは・・・本当に・・・金栗さんのことを片時も忘れなかったのだ。

金栗さんは、生涯に25万キロを走った。
山田さんは、35万キロを走破し、なおも走り続けた。

金栗先生の代わりに走れるだけ走ってやれ

誰よりも日本マラソンの発展に尽力しながら、
マラソン選手としては決して栄光に浴したとは言えない
“師”金栗四三。
その偉大さを、俺が証明してやるのだ――。
山田さんの言葉には、そんな“覚悟”が迸(ほとばし)っている。

だからこのメダルは、山田さんから師へと贈った金メダルなのだ。
山田さんは、ご自身の栄光を、勝利を、金栗さんに捧げたのだ。
そう思うと・・・・・・熱いものがこみあげてくる。

金栗さんは、山田さんをはじめ多くのランナーを育て、残した。
金栗さんから山田さんに渡った襷(たすき)は、
今もなお多くのランナーたちにつながっているはずだ。
そして、Y田さんも、その襷を受け取ったおひとりなのだと思う。

Y田さんは、今年、フルマラソンの完走に挑戦されるそうです。

“金栗四三のマラソンシューズ”とY田さん。


※文中の山田敬蔵さんの言葉やエピソードは、「金栗四三展」(2002年・熊本県玉名歴史博物館)に山田さんが寄稿された『金栗先生との思い出』から引用しています。

(つづきます)

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“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

お宝鑑定の依頼人から金栗四三さんの話を聞く。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた!(その4)2013年08月06日 17時04分12秒



(つづき)

金栗四三のマラソンシューズ
その鑑定依頼人である徳永さんは、
この日、オリンピアサンワーズにご来店される前に、
大阪にある江崎グリコ本社を訪問されたそうです。

なぜ“グリコ”へ?っていうと、この“ゴールインマーク”↓
(なにかの景品でもらったお菓子の詰め合わせ箱)

「このマークは何度か変わっています。大きく変わった最初は、1928年(昭和3年)。女学生が『顔がこわい』というのを聞き、当時活躍していたスポーツ選手数人のゴールイン姿を参考に表情を描き直しました。」(グリコHPより)

この「スポーツ選手数人」のおひとりが金栗さんなのだそうです。
その他、徳永さんから金栗さんとの思い出を色々とうかがいました。

川見店主(左)と徳永さん(右)と、オレの後頭部(中央)↓


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徳永さんのご実家と金栗さんの家はご近所だった。
金栗さんと、競輪の選手だった徳永さんのお父さんとは、
お互いがスポーツマンとして心通じるものがあったのか、
とても親しかった。
50年ほど前のある日、
お父さんが金栗さんの家に呼ばれて渡されたのが、
お宝の“金栗四三のマラソンシューズ”なのだそうだ。

徳永さんの記憶にある金栗さんは、もう70歳を越えていたはずだ。
(金栗さんは1983年、92歳で生涯を終えられた)
当時の金栗さんはいつも決まった時間に散歩にでかけられた。
背筋をピンと伸ばし、矍鑠(かくしゃく)と歩かれる金栗さんの姿を
徳永さんは今も覚えている。

当時の金栗さん。立ち姿はどこまでも若々しい。
(徳永さん所蔵のポートレートより)

日本マラソンの父――金栗さんはおいくつになられても、
多くのマラソン選手から「金栗先生」と慕(した)われていた。
往年のランナーたちは、指導を求めて熊本県の金栗さんのもとを訪れた。

徳永さん:「オリンピックとか大事な試合の前には、
        君原健二さんや円谷幸吉さんが、
        金栗先生に会いにやって来られました」

でも当時の徳永“少年”にとっては、“金栗先生”は“隣のおじさん”だった。

徳永さん: 「金栗先生には、よくヤギの乳を飲まされました。
         『カラダにいいから飲みなさい』、とおっしゃる。
         私にはマズくって、イヤだったんですけど(笑)」

校内でマラソン大会があると、徳永少年は頑張らざるを得なかった。
マラソンのコースは少年の家の前を通ることになっていて、
お父さんと“隣のおじさん”が、
いつも家の前で彼が走り過ぎるのを待っていたからだ。
それは少年にとってはプレッシャーだった。
ふたりが待っている家の前だけは、
とにかく必死になって一番で走り過ぎた。
でも、たいていは、その後ズルズルと順位は下がっていった。

ある時、お父さんと“隣のおじさん”は、
「学校のゴールで待っている」ことになった。
少年は、これは困ったと思った。
そして、自分が一番でゴールするために一計を案じた。
自分より速くゴールする者がいなければいいのだ。
同級生たちに声をかける。
「おい、俺より先にゴールするなよ。学校の正門前で待っててくれよ」
その日、彼らは、正門前から横一列になって走り、一緒にゴールした。

徳永さん: 「校長先生に呼び出されて、
         『徳永!こんなこと考えたのはお前だろう!
         ってこっぴどく叱られましたよ(笑)」

“隣のおじさん”は、いつも柔和な笑顔で“少年”に接してくれた。

徳永さん: 「あれだけの功績を残された金栗先生ですが、
         えらそうにされていた姿なんて
        一度だって見たことがありません



金栗四三さん


(おわりです)

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“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

今週の残暑お見舞いもうしあげる。2013年08月07日 18時00分14秒

残暑お見舞いもうしあげる。
「残暑」どころか「猛暑」お見舞いもうしあげたいところである。
みなさまがたにおかれましては、いかがお過ごしのことだろうかである。

暑さには強いわが輩も、
さすがに、
ひんやりボードの上で過ごすことが多くなった。
おなかちめたで快適である。


この暑さにもかかわらず、
飼い主はわが輩に、
なんだかんだと運動をさせたいようである。


少々めんどうだが、
相手になってあげるように努力はしているのである。


飼い主とのイス取り合戦は、毎晩つづいておる。
どんな荷物を置かれても、わが輩は負けないつもりである。


先日、病院へ連れて行かれたのである。
わが輩は、病院では、とてもお行儀がよいのである。
お医者さんには、“良いネコだ”と評判である。


だからといって、病院は、キライである。
コワイもん。


(撮影:川見店主)


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