お宝鑑定の依頼人から金栗四三さんの話を聞く。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた!(その4)2013年08月06日 17時04分12秒



(つづき)

金栗四三のマラソンシューズ
その鑑定依頼人である徳永さんは、
この日、オリンピアサンワーズにご来店される前に、
大阪にある江崎グリコ本社を訪問されたそうです。

なぜ“グリコ”へ?っていうと、この“ゴールインマーク”↓
(なにかの景品でもらったお菓子の詰め合わせ箱)

「このマークは何度か変わっています。大きく変わった最初は、1928年(昭和3年)。女学生が『顔がこわい』というのを聞き、当時活躍していたスポーツ選手数人のゴールイン姿を参考に表情を描き直しました。」(グリコHPより)

この「スポーツ選手数人」のおひとりが金栗さんなのだそうです。
その他、徳永さんから金栗さんとの思い出を色々とうかがいました。

川見店主(左)と徳永さん(右)と、オレの後頭部(中央)↓


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徳永さんのご実家と金栗さんの家はご近所だった。
金栗さんと、競輪の選手だった徳永さんのお父さんとは、
お互いがスポーツマンとして心通じるものがあったのか、
とても親しかった。
50年ほど前のある日、
お父さんが金栗さんの家に呼ばれて渡されたのが、
お宝の“金栗四三のマラソンシューズ”なのだそうだ。

徳永さんの記憶にある金栗さんは、もう70歳を越えていたはずだ。
(金栗さんは1983年、92歳で生涯を終えられた)
当時の金栗さんはいつも決まった時間に散歩にでかけられた。
背筋をピンと伸ばし、矍鑠(かくしゃく)と歩かれる金栗さんの姿を
徳永さんは今も覚えている。

当時の金栗さん。立ち姿はどこまでも若々しい。
(徳永さん所蔵のポートレートより)

日本マラソンの父――金栗さんはおいくつになられても、
多くのマラソン選手から「金栗先生」と慕(した)われていた。
往年のランナーたちは、指導を求めて熊本県の金栗さんのもとを訪れた。

徳永さん:「オリンピックとか大事な試合の前には、
        君原健二さんや円谷幸吉さんが、
        金栗先生に会いにやって来られました」

でも当時の徳永“少年”にとっては、“金栗先生”は“隣のおじさん”だった。

徳永さん: 「金栗先生には、よくヤギの乳を飲まされました。
         『カラダにいいから飲みなさい』、とおっしゃる。
         私にはマズくって、イヤだったんですけど(笑)」

校内でマラソン大会があると、徳永少年は頑張らざるを得なかった。
マラソンのコースは少年の家の前を通ることになっていて、
お父さんと“隣のおじさん”が、
いつも家の前で彼が走り過ぎるのを待っていたからだ。
それは少年にとってはプレッシャーだった。
ふたりが待っている家の前だけは、
とにかく必死になって一番で走り過ぎた。
でも、たいていは、その後ズルズルと順位は下がっていった。

ある時、お父さんと“隣のおじさん”は、
「学校のゴールで待っている」ことになった。
少年は、これは困ったと思った。
そして、自分が一番でゴールするために一計を案じた。
自分より速くゴールする者がいなければいいのだ。
同級生たちに声をかける。
「おい、俺より先にゴールするなよ。学校の正門前で待っててくれよ」
その日、彼らは、正門前から横一列になって走り、一緒にゴールした。

徳永さん: 「校長先生に呼び出されて、
         『徳永!こんなこと考えたのはお前だろう!
         ってこっぴどく叱られましたよ(笑)」

“隣のおじさん”は、いつも柔和な笑顔で“少年”に接してくれた。

徳永さん: 「あれだけの功績を残された金栗先生ですが、
         えらそうにされていた姿なんて
        一度だって見たことがありません



金栗四三さん


(おわりです)

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“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓



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