たかさんから届いたハリマヤのシューズたち。2014年02月06日 11時27分03秒

先日、このブログに紹介している
"伝説のシューズメーカー"HARIMAYA(ハリマヤ)記事に、
こんなコメントをいただきました(その記事はこちら)。

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 _ たか ― 2014年01月31日 00時02分55秒

 私たちの時代は
 ハリマヤのシューズがなかなか買えなかったので
 履いている友達がうらやましかったものです。
 オークションで探して買った現物が何足かありますが
 画像のアップの仕方がわかりません。
 教えていただければ...。


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ほぉーー!
これはぜひともそのシューズを拝見させていただきたい!
で、当ブログにはコメント欄に
画像をアップできる機能がありませんので、
たかさんには、
「できれば画像を当店宛にメールで送ってくだされば」
とコメント欄に返信しつつおねだりしたんですが、
早速、ハリマヤシューズ画像を送ってきてくださいました!
たかさん、ありがとうございます!

さて、そのシューズたちは……
おーー、これは年代を感じるシューズたちです。
これ、いつの、なんていうシューズなのだろう……?


あ!ひょっとして!
以前、ハリマヤ特集サイトにも紹介した、
1970年頃のハリマヤカタログに載ってるかも?↓

表と裏紙


(このカタログはお客様のA先生所蔵)


おおおおおおお!
載ってる載ってる!

以下、たかさんが送っていただいたシューズ画像と
1970年頃のカタログを照らし合わせてハリマヤ写真展開催!

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【1足目】

なんて斬新なデザインのマラソンシューズなんだ!
(たかさん所蔵)


足首周りのナイロンパイルに工夫が見られます↓


で、このマラソンシューズは、これだ!

【フェニックスAナイロン】
甲……ナイロン、バイリーン、ナイロンパイル
   三重合わせ、紐なし
底……青スポンジ
\1,850


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【2足目】

これは真っ白で、ハリマヤのラインもない。
(たかさん所蔵)


踵(かかと)に「HARIMAYA」。


で、このシューズは、これかも!

【フェニックスB布(レース用)】
(トレーニングシューズ)
甲(純白)……ナイロンコアクロス、綿パイル、
       二重合わせ、ベロなし。
底……スポンジ
\1,600

前出の【フェニックスAナイロン】のレース用
ってことなんでしょうか。
わざわざの「布」って商品名がそのままやん!と言いたい。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【3足目】

赤と紺のラインのシューズ。
(たかさん所蔵)


ベロ部には、ハリマヤの「よ」マーク。


で、このマラソンシューズは、これだ!

【ハリマンスニーカー】
(トレーニングシューズ)
甲……綿ナイロンコアクロス、綿パイル
   二重合わせ。
底……特厚スポンジ
\1,550


たかさんのお話によると
ロゴや靴底等から"爪ライン"以前のものだと思います
とのこと。

ハリマヤのラインって3本線しか実物見たことないんですけど、
それ以前は2本線だったんですねー。
で、たかさんは3本線を"爪ライン"と呼んでいたと。
確かに3本線は「爪」の字みたい見えます。
82年の「カナグリノバ」は3本線↓



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【4足目】

アクアブルーとネイビーのラインがなかなかに爽やか。
(たかさん所蔵)


で、このマラソンシューズは、多分これだ!

【メダリストC】
(トレーニングシューズ)
甲……綿ナイロンコアクロス。
底……スポンジ
\1,350


「多分」
っていうのは、
実はこれとまったく同じデザインのシューズがもう1足ある↓

【メダリストCトラック】
(トレーニングシューズ)
甲……綿ナイロンコアクロス。
底……トラック専用スパイク型、スポンジ
\1,400

【メダリストC】となにが違うって、靴底がちがうみたいです。
だから、こっちの【メダリストCトラック】の写真は、
わざわざ靴底を写してアピールしてます。
"トラック"って言葉を商品名につけ足してあるのと、
商品の紹介文からすると、
競技場専用のトラックシューズってことなんでしょうね。

果たしてたかさんのシューズは
【C】なのか【Cトラック】なのか?
ちょっと判断がつかない1足であります。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【5足目】

最後は3本ラインのマラソンシューズ。
(たかさん所蔵)

内側からの1枚。


このシューズはカタログに載ってませんでした。

1968年メキシコ五輪であの君原健二選手が使用し、
マラソンで銀メダルを獲ったという
アシックスの「“空冷式マラソンシューズ”マジックランナー
にそっくりなタイプですね。

アシックスのマジックランナー↓
(オリンピアサンワーズ蔵)


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【箱】

HARIMAYAの箱。3色で贅沢じゃないすか。
これ、今見たら、まわりまわってカッコいい。
(たかさん所蔵)


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

たかさんには、これらのシューズを
手に入れられた経緯も教えていただきました↓

オークションでハリマヤのシューズを購入した経緯は
 別のシューズを探していて、偶然見つけたものでした。


 当初、オニツカタイガーのマジックランナー(君原健二選手愛用のもの)と
 マラップ布レース用(瀬古利彦選手愛用のもの)を探していていたら
 たまたまハリマヤの名前があるではありませんか。
 昔、月刊陸上や陸マガに載っていた『ハリマヤ』
 当方高知出身のため、『ハリマヤ』という名前は『はりまや橋』とダブり
 ずっと心の隅に残っていて、
 これはもう絶対手に入れたいと思ったことでした。
 それから、数点ハリマヤシューズがオークションに出ましたが
 今ではそれもすっかり見かけなくなりました。

 同年代の人たちと飲んだときなどに見せると
 昔のシューズは、底のクッションがこんなだったとか
 このライン懐かしいなあとか、あるいはこんなシューズもあったのかなどと、
 話は盛り上がって尽きません。

 やはり自分が競技をしていた頃のものは、本当に懐かしく
 また過去の自分を振り返る意味でも貴重なものだと思います。
 送らせていただいた画像が少しでも皆さんのお役に立てれば幸いです。」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

以上でございます。

今も、日本のどこかに、
まだまだ色んなハリマヤが埋もれていることでしょうね。

たかさん、ありがとうございました!


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【関連サイト】

特集サイト「嗚呼、ハリマヤのシューズ」↓


「オリンピア~ナチスの森で」(沢木耕太郎著)にハリマヤ創業者の黒坂辛作さんの名前があった。2013年12月18日 19時47分54秒

1年前の今日12月18日、何をしてたかって言うと、
「開運!なんでも鑑定団!」に
川見店主が「鑑定士」デビューしてました。
それに合わせて、
伝説のシューズメーカー"HARIMAYA(ハリマヤ)"については、
いろんな方々からもご協力いただいて特集サイトを作ったりしてました。

特集サイト「嗚呼、ハリマヤのシューズ」↓


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1936年。
第11回オリンピック・ベルリン大会での日本代表選手は、
今でも語り継がれるほどの活躍を見せた。
この大会の一部の競技は、オリンピックとしても
はじめて日本でラジオの実況生中継が放送された。
かの有名な
「前畑、ガンバレ!前畑、ガンバレ!」
のフレーズは、この大会で生まれたのだ。
人々はラジオの前で手に汗を握り、
新聞紙面をにぎわす代表選手の勝敗に一喜一憂した。
日本中が、連日にわたってオリンピックに熱狂した。

「オリンピア~ナチスの森で」(沢木耕太郎著)には、
このベルリン五輪に出場した日本代表選手たちが、
"その時"どのような気持ちでベルリンの地を踏み、
"その後"の人生をいかに生きたのか、
時代に翻弄(ほんろう)されながらも、
いかに懸命に個人の"生"を生きたのかが描かれている。


ベルリン五輪のマラソンで優勝したのは、
日本代表の孫基禎(ソン・ギジョン、1914-2002)選手だった。
このレースを孫選手はハリマヤの"マラソン足袋"を履いて走った。

「オリンピア~ナチスの森で」には、
ハリマヤ創業者の黒坂辛作さんとご子息の勝蔵さんの名前が、
マラソンを走る孫選手のエピソードとともに紹介されている。
(第7章「故国のために」)

 「孫は、前半を自分のペースで走ったおかげで
  消耗の度合いは少なかったが、四十キロを前にして
  左足が痛くなってきた。履いていたマラソン・タビが
  小さすぎたのだ。そのタビは彼の足に合わせて、
  東京大塚仲町のタビ職人黒坂辛作、勝蔵の親子が
  作ってくれたものだった。

  (中略)
  黒坂は、いろんな状況に対応できるように、
  微妙に大きさの違うタビを五足作ってくれたが、
  レースに用いたタビは少し小さかったのだ。」


そして、このエピソードは、当時の新聞記事
我、世界に勝つ」と内容が合致している。

さて、孫選手が日本代表選手としてマラソンに出場したのは、
当時、朝鮮が日本の統治下にあったからだ。
マラソンで優勝した孫選手が、
表彰台で味わっていたのは金メダルの喜びだけではない。

 「だが、月桂の冠を頭にかぶせられると、
  場内には『君が代』が流れ、
  国旗掲揚台に『日の丸』が翻(ひるがえ)った。
  孫はうつむきながら、どうしてここで『君が代』が流され、
  『日の丸』が掲げられなければならないのだろう、
  と無念の思いで聞いていた。
  孫基禎は、この時、かつてないほど痛切に
  『亡国』の悲しみを感じることになったのだった。」
 

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1936年のベルリン五輪には……どうしても暗い影がつきまとう。
20世紀の「戦争の時代」が色濃く反映して見えてしまうからだ。

しかし、孫選手も、その他の選手たちも、
そして黒坂さんも、あの時代を生きた他の人々も、
誰もが時代に翻弄されながらも、
懸命に個人の"生"を生き抜いていたはずだと思う。

2020年は東京オリンピック。
その時世界がどうなっていようと、
懸命に個人の"生"を生きる我々人類の代表選手たちが、
それぞれの国や民族の尊厳を踏みにじられることなく、
いかんなく力を発揮できる大会であってほしいと思います。

オリンピックなのだから。


お宝鑑定の依頼人から金栗四三さんの話を聞く。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた!(その4)2013年08月06日 17時04分12秒



(つづき)

金栗四三のマラソンシューズ
その鑑定依頼人である徳永さんは、
この日、オリンピアサンワーズにご来店される前に、
大阪にある江崎グリコ本社を訪問されたそうです。

なぜ“グリコ”へ?っていうと、この“ゴールインマーク”↓
(なにかの景品でもらったお菓子の詰め合わせ箱)

「このマークは何度か変わっています。大きく変わった最初は、1928年(昭和3年)。女学生が『顔がこわい』というのを聞き、当時活躍していたスポーツ選手数人のゴールイン姿を参考に表情を描き直しました。」(グリコHPより)

この「スポーツ選手数人」のおひとりが金栗さんなのだそうです。
その他、徳永さんから金栗さんとの思い出を色々とうかがいました。

川見店主(左)と徳永さん(右)と、オレの後頭部(中央)↓


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徳永さんのご実家と金栗さんの家はご近所だった。
金栗さんと、競輪の選手だった徳永さんのお父さんとは、
お互いがスポーツマンとして心通じるものがあったのか、
とても親しかった。
50年ほど前のある日、
お父さんが金栗さんの家に呼ばれて渡されたのが、
お宝の“金栗四三のマラソンシューズ”なのだそうだ。

徳永さんの記憶にある金栗さんは、もう70歳を越えていたはずだ。
(金栗さんは1983年、92歳で生涯を終えられた)
当時の金栗さんはいつも決まった時間に散歩にでかけられた。
背筋をピンと伸ばし、矍鑠(かくしゃく)と歩かれる金栗さんの姿を
徳永さんは今も覚えている。

当時の金栗さん。立ち姿はどこまでも若々しい。
(徳永さん所蔵のポートレートより)

日本マラソンの父――金栗さんはおいくつになられても、
多くのマラソン選手から「金栗先生」と慕(した)われていた。
往年のランナーたちは、指導を求めて熊本県の金栗さんのもとを訪れた。

徳永さん:「オリンピックとか大事な試合の前には、
        君原健二さんや円谷幸吉さんが、
        金栗先生に会いにやって来られました」

でも当時の徳永“少年”にとっては、“金栗先生”は“隣のおじさん”だった。

徳永さん: 「金栗先生には、よくヤギの乳を飲まされました。
         『カラダにいいから飲みなさい』、とおっしゃる。
         私にはマズくって、イヤだったんですけど(笑)」

校内でマラソン大会があると、徳永少年は頑張らざるを得なかった。
マラソンのコースは少年の家の前を通ることになっていて、
お父さんと“隣のおじさん”が、
いつも家の前で彼が走り過ぎるのを待っていたからだ。
それは少年にとってはプレッシャーだった。
ふたりが待っている家の前だけは、
とにかく必死になって一番で走り過ぎた。
でも、たいていは、その後ズルズルと順位は下がっていった。

ある時、お父さんと“隣のおじさん”は、
「学校のゴールで待っている」ことになった。
少年は、これは困ったと思った。
そして、自分が一番でゴールするために一計を案じた。
自分より速くゴールする者がいなければいいのだ。
同級生たちに声をかける。
「おい、俺より先にゴールするなよ。学校の正門前で待っててくれよ」
その日、彼らは、正門前から横一列になって走り、一緒にゴールした。

徳永さん: 「校長先生に呼び出されて、
         『徳永!こんなこと考えたのはお前だろう!
         ってこっぴどく叱られましたよ(笑)」

“隣のおじさん”は、いつも柔和な笑顔で“少年”に接してくれた。

徳永さん: 「あれだけの功績を残された金栗先生ですが、
         えらそうにされていた姿なんて
        一度だって見たことがありません



金栗四三さん


(おわりです)

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伝説のシューズメーカー“ハリマヤ”と
“金栗四三のマラソンシューズ”をもっと詳しくはこちらの関連サイトで!


“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

山田敬蔵35万キロ走破の記念メダルに涙する。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた!(その3)2013年08月03日 19時26分01秒



(つづき)

金栗四三のマラソンシューズ”が
オリンピアサンワーズにやってくることが決まった時、
Y田さんにはどうしても見ていただきたいと思いました。

Y田さんは、現在75歳。
若き日から、金栗さんや、金栗さんに続くランナーたちを
あこがれ、尊敬し、その背中を見ながら走ってこられました。
そして、なんと、今も走り続けておられます。

Y田さんは、
昨年12月の「開運!なんでも鑑定団」の放送後、
いい番組だった。いい話をしてくださった
と、感極まる声でお電話をくださいました。
そして、以前、山田敬蔵(やまだ・けいぞう)さんから
「35万キロ走破達成の記念メダルをもらった」
というお話をしてくださったのでした。

この日、Y田さんはその「山田敬蔵のメダル」を持って、
金栗四三のマラソンシューズ”に会いに来られました。

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山田敬蔵(1927-)
(1953年アメリカ・ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さん)

金栗さんと山田さんが初めて出会ったのは1949年(昭24)。
金栗さんは58歳、山田青年は22歳だった。
その時、山田さんは嬉しさがこみあげてきてならなかったという。
「あー、この人が子供の頃から憧れていたマラソンの神様なんだ!」

その後、山田さんは1952年のヘルシンキ五輪マラソンで25位。

1953年にはアメリカ・ボストンマラソンで優勝。
その小さな体で世界を制した山田さんの活躍に、
いまだ敗戦の傷跡残る日本の人々は熱狂した。
山田さんをモデルにした映画も作られたほどだ。

ボストンマラソンでの日本選手団の監督は金栗さんだった。
金栗さんはゴールした山田さんのもとに駆け寄って、
山田君ありがとう。山田君ありがとう」と
涙を流して“自分のことのように”喜んだのだそうだ。

そして、山田さんに、こんな言葉を残した。

「これからもできるだけ走ってくれ」
「走れなくなったとしても、招待を受けることがあったらその招待は受けなさい」
「たとえ小さな日本人であっても努力することによって
 日本一、世界一になれるといういい見本になれる」

山田さんはその後の生涯を、金栗さんの言葉のままに走り続けた。

金栗先生の代わりに走れるだけ走ってやれ

山田さんは、そう心に決めて走り続けた。
50歳になっても、60歳になっても、
70歳になっても、80歳になっても、
レースに出場し、走り続けた。
そして、ゴールする度に、胸の中の金栗さんに、こう語りかけた。

先生、また一つレースを走ったよ


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山田さんは2009年に81歳でフルマラソンからの引退を表明。
このメダルはその2年前、2007年に、山田さんが
35万キロ走破を達成された記念に発行されたもの。
(Y田さん所蔵)

このメダルは、
70歳(!)を目前にしたY田さんが、あるマラソン大会に出場した折に、
80歳(!)を目前にした山田さんから
キミはよく見かけるなぁ。がんばってるなぁ」と、
直接いただいたのだそうです。

このメダルを見たとき、驚きました。
これは、「山田敬蔵」さんの記念メダルのはずです。
しかし、表に象(かたど)られているのは、「金栗四三」さんです。
「日本マラソンの父・金栗翁」の文字もあります。

そして、このメダルの裏には、
金栗さんの信条である「体力・気力・努力」の文字。


金栗さんと山田さんの物語を思い出すたびに胸に押し寄せるものが、
このメダルを見ても、ぐわっと押し寄せてきました。
山田さんは・・・本当に・・・金栗さんのことを片時も忘れなかったのだ。

金栗さんは、生涯に25万キロを走った。
山田さんは、35万キロを走破し、なおも走り続けた。

金栗先生の代わりに走れるだけ走ってやれ

誰よりも日本マラソンの発展に尽力しながら、
マラソン選手としては決して栄光に浴したとは言えない
“師”金栗四三。
その偉大さを、俺が証明してやるのだ――。
山田さんの言葉には、そんな“覚悟”が迸(ほとばし)っている。

だからこのメダルは、山田さんから師へと贈った金メダルなのだ。
山田さんは、ご自身の栄光を、勝利を、金栗さんに捧げたのだ。
そう思うと・・・・・・熱いものがこみあげてくる。

金栗さんは、山田さんをはじめ多くのランナーを育て、残した。
金栗さんから山田さんに渡った襷(たすき)は、
今もなお多くのランナーたちにつながっているはずだ。
そして、Y田さんも、その襷を受け取ったおひとりなのだと思う。

Y田さんは、今年、フルマラソンの完走に挑戦されるそうです。

“金栗四三のマラソンシューズ”とY田さん。


※文中の山田敬蔵さんの言葉やエピソードは、「金栗四三展」(2002年・熊本県玉名歴史博物館)に山田さんが寄稿された『金栗先生との思い出』から引用しています。

(つづきます)

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伝説のシューズメーカー“ハリマヤ”と
“金栗四三のマラソンシューズ”をもっと詳しくはこちらの関連サイトで!

“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓

そのシューズは、日本のマラソンとランニングシューズ100年の歴史を物語る。~“金栗四三のマラソンシューズ”がやってきた(その2)2013年08月02日 18時57分53秒



(つづき)

そのシューズは、思っていたよりもサイズは小さかった。


しかし、この小さなシューズこそが、
金栗四三さんからはじまった
日本の「マラソン」と「ランニングシューズ」
その100年の歴史を物語る――


【金栗四三】(1891-1983)
“日本マラソンの父”。
日本で初めてのオリンピック選手。
フルマラソンを「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒03」で完走の伝説。
箱根駅伝の創設者。
生涯の走行距離25万キロ(地球6周と4分の1)
日本マラソン史のみならず、
スポーツ史に屹立する偉人であり巨人。

(徳永さん所蔵のポートレートより)

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【1912-1951年】

1912年ストックホルム・オリンピックのポスター
(徳永さん所蔵のポートレートより)

1912年、ストックホルム五輪。
日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場した金栗さんは、
「足袋(たび)」を履いて走りました。
その足袋を作ったのが、「播磨屋(はりまや)足袋店」の
足袋職人・黒坂辛作(くろさか・しんさく)さんです。

【黒坂辛作】〈1880-?〉
「播磨屋足袋店」(後のハリマヤ)創業者。
(写真は黒坂さんの“曾孫”輝凛さんからご提供いただいた新聞記事より)

その後、
金栗さんと黒坂さんは共同で「マラソン足袋」の開発を続けました。
進化する「マラソン足袋」は「金栗(かなぐり)足袋」と呼ばれ、
歴代の日本マラソン選手たちが愛用しました。

1936年ベルリン五輪では日本代表の孫基禎選手がマラソンで金メダル。
1951年アメリカ・ボストンマラソンでは、田中茂樹選手が優勝。
いずれも「金栗足袋」で走り、世界を制しました。

日本マラソンの歴史が1912年にはじまったとするならば、
実に40年もの間、日本のマラソン選手は
播磨屋の「マラソン足袋」で走るのが主流だったのです。

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【1950-1953年】

1953年山田敬蔵(やまだ・けいぞう)さんがボストンマラソンで優勝。
この時、山田さんは日本で“初めて”の“マラソンシューズ”とされる
「ハリマヤ」社製の「カナグリシューズ」で走りました。

山田敬蔵(1927-)
(1953年アメリカ・ボストンマラソン優勝時の山田敬蔵さん)

山田さんの1953年ボストンマラソン優勝をきっかけに
マラソンを「足袋」で走っていた時代は終わり、
マラソンシューズ」の時代が本格的に幕を開けたと考えられます。



調査の結果、この“金栗四三のマラソンシューズ”は、
金栗さんと「ハリマヤ」の共同開発によって
1950-51年頃に作られた、
カナグリシューズ」の最も初期のモデルだと鑑定されました。
つまり、1953年ボストンマラソンで優勝した
山田さんの「カナグリシューズ」よりもさらに古い、
マラソンシューズの“原型”
とでも呼べるシューズだったのです。

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【1950年-現在】

1950-51年頃に生産されたとされる
“金栗四三のマラソンシューズ”は180gほどの重量しかありません。

例えば現在、
アシックスのマラソンシューズの重量は、サイズ25.0cmで140gほど。
スピードランニング用のターサーは、同サイズで160gほどです。
マラソンシューズの2013年最新モデル SORTIE MAGICRICE↓
ハリマヤやアシックスが長年にわたって日本で展開してきた
定番のマラソンシューズやランニングシューズが、
外国のランニングシューズよりも軽量に実現できたのは、

「日本のランニングシューズのはじまりが、
 ハリマヤの“カナグリシューズ”だったからだ」


と川見店主は考えています。

「日本マラソンの父」金栗四三さん。
「ハリマヤ創業者」黒坂辛作さん。
このおふたりがいらっしゃらなければ、
日本のマラソンとランニングシューズは、
現在のようなレベルには到達していなかったかもしれません。

さらに、この“金栗四三のマラソンシューズ”には、
“これから”のランニングシューズづくりの“ヒント”があると
川見店主は思っています。
ランニングシューズの“過去”と“未来”。
なんとも壮大な「歴史」と「ロマン」を感じさせるシューズなのでした。




社会人サブスリーランナーのおふたりと、
強豪校に所属する高校生ランナーとオレ。
「へぇー、これがランニングシューズの“原型”!」


高校時代は3000m障害の選手だったMドクター(左)が、
診察が終わってから、かけつけて来られました。
この日のために設置した“ハリマヤ・コーナー”の前で川見店主と語り合う。
川見店主 :「ほら、これが金栗さんのシューズ」
Mドクター :「ほぉー、軽いですねぇ」


徳永さんと“金栗四三のマラソンシューズ”を囲んで1枚。


(つづきます)

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伝説のシューズメーカー“ハリマヤ”と
“金栗四三のマラソンシューズ”をもっと詳しくはこちらの関連サイトで!

“金栗四三のマラソンシューズ”その正体↓



オリンピアサンワーズのブログは引っ越しました。

新しいブログはこちらです。↓

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